デンジャラス・デイズ/プロレタリアートの憂鬱

 裏ビデオ屋の店番は、傍から思われるほど楽ではなかった。

 そのころでは、とうに彼らは合理的経営精神を身につけていたし、店番をこなしながら無垢で無能な大衆のPCにボットを仕掛けてまわれるくらいにぼくは有能だった。実際のところ、楽な仕事だったのだ。裏ビデオ屋の店番は。
 もちろん、パクられる危険を除いたら、だけれど。
 意思決定は存在しない。客は紙に数字を書く。受話器を持ちあげ、ぼくはどこかの誰かに数字を伝える。客はソファに座り、煙草を喫い、缶珈琲をあおる。どこかの誰かが焼いたDVDが、貨幣と交換される。違法なDVDが合法な貨幣と。そのころの売れ筋は、地名に援交がついたタイトルの裏ビデオだった。
 初老の男が差しだした紙には『廣島援交』の番号が列挙されていた。それは、携帯電話番号のようにも見えた。
「新品のボットを千、註文したい」男はぼくの眼を見つめて告げた。「オオタさんの、古い知り合いなんだ」

 ラインキーを押しながら、受話器を持ちあげた。緊急事態注意報が発令される。男は警官のようには見えなかったが、警官にさよならを言う方法は発明されていない。この警戒レヴェルでは本社のマネージャーが可及的速やかに対応する。言うまでもない。本社は関東一円会系の企業舎弟だ。
 ぼくの本業は、有り体に言えば黒社会における先進的技術開発だ。
 そのころのニッポンで、ボットファームのトップランナーだったことは間違いない。
 そのぼくが、裏ビデオ屋の店番に身をやつしていたのは一種の懲罰人事だった。猥褻コンテンツサーバがハングした責任を取らされたのだ。

「オオタだ」受話器から低い声が響いた。状況説明が終わると「電話を代われ」と命じた。
 受話器を受け取り、けれど、男はぼくの眼を見つめつづけた。
「どうも、『狼』です。おひさしぶりです」初老の男はオオタと電話で話している。
 男から眼をそらし、ぼくは他の客から紙を受けとる。
 後から判ったことだけど、初老の男──ササキは日蓮宗の極秘情報戦部隊を統括していた。オオタとは七〇年安保でともに闘い、ともに敗れた。公安の眼を反らすため、法華経を唱えた。日蓮宗の裏側でのしあがり、設立した部隊は私兵に等しい。まるで、ぼくがオオタの直轄だったように。

 懲罰人事が終わり、新たな懲罰人事が産まれた。顧客の要望に応えて、ぼくは教導隊の先任軍曹に抜擢された。言うまでもない、彼の極秘情報戦部隊の。不可思議なことに教導隊に配属されていたのは女性ばかりだった。決起集会が宗派が運営する呑み屋で行われたことに不思議はなかった。

 サルサを踊りながら、サヤカはぼくにささやいた。
「ニッポンの富裕層のMac利用率知ってますか? Mac用のワームを作ることは充分に経済的です」彼女は教導隊のエースだった。「秘匿され、分散されたネットワークに情報を蓄積する。そのために──」彼女はぼくの唇をふさいだ。彼女の舌がもぐりこむよりも速く、ぼくは唇を離した。「あなたのボットファームは自律的な匿名ネットワークとして機能すると伺いました」
「そう。ぼくはいつでも顧客の利便性を一番に考える」
「この作戦計画の評価はいかがでしょうか?」押しつけられた胸は予想よりも豊満だった。
「この計画の主眼は、富裕層──盗聴の経済的価値が高い層を狙うことだ。どうやって?」サヤカは壁の向こう、六本木の丘をにらみつけた。いやいや、港区のすべての坂道を。「話は簡単で難しい。結局、『そこ』を訪れるのが一番早い。問題は痕跡の消し方さ」これはイロハのイだった。

 イロハのロとハについてくだくだしく述べるまい。
 しかし、およそ富裕層向けの建築物は、縦管にネットワークケーブルを通してある。入居者は野方図に無線LANを構築している。非常階段を伝って各フロアまで到達できる(扉は開かないかもしれない)。畢竟、必要なものは作業服だ。
 サヤカの指揮の下、作戦は成功した。仏敵を痛めつけるに充分な情報が収集され、今も収集されつづけている。
 彼女とぼくの上下関係はだいたい半々だった。身体的な意味で。

 オオタとササキの契約が終了した。
 切り詰めた散弾銃をアディダスのバッグに収め、ぼくは疾走する。
 まさに、今。

(二〇一〇年十二月十八日公開)